夢見たっていいじゃん…!?憧れの「LGBTカップル」になりたい!

ドゥエインジョンソンじゃない

ここのところ、本やテレビや映画の中で、昔よりはだいぶ大っぴらに「ゲイの恋愛」が語られ消費されてもいると感じます。そのいくつかは作品としてもよくできており、世間的にも「LGBTがカップルになること」自体がそこまで耳目を引くスクープではなくなってきているとも感じます。
夕方のニュース番組でも「〇〇と〇〇(著名人)がパートナー宣言をした」といったニュースが「LGBTを受け入れよう!」という論調の中で取りざたされ、公的な証明書も発行できるようになるなど、認知度の向上と共に社会の風もだいぶ「LGBT寄り」に吹いているなとも感じます。
しかし、私はそのようにメディアを通じて自分に届く「LGBTカップル」たちの姿を、どこか現実的ではないフワフワとした憧れの世界のもののようにしか捉えられていません。
私は私の偏見にまみれた世界を変えてくれる誰かに出会っていないからです。

私の偏見、それは「Gは普通じゃない」というものです。
私がこれまで好意を抱いてきた、「ふつう」の感覚で女性を好きになる男性たちは、一緒に過ごす中で嗅ぎ取った「普通じゃない」私の感覚に、「理解」を示してはくれるものの、「私と同じ感覚で恋愛感情を持って」くれて「私を恋愛対象に選んで」くれることはなかったからです。
私が望む「あわよくば」の展開は、友情ルートを脱線した先にある恋愛ルートに乗ることです。
そしてそれには、安全運転の守りの人生から、脱輪・脱線もいとわないパニック映画並みのデンジャラス展開を覚悟のうえでする「カミングアウト」が絶対に必要不可欠であり、そのようなイチかバチかの人生の賭けは、まだ死にたくない私にとって本当にハードルの高い、まさに「決死の」所業だったのです。

一体なにがどうなっているんだか

「ゲイなんだから同じゲイと付き合えばいいじゃん」「そしたらカミングアウトとか必要ないじゃん」と思われる方もいるかもしれませんが、ここが難しいところです。
「Gである自分に偏見がある」私は、ゲイの方を好きになったことがないのです。
女性を恋愛対象とされている、いわゆる「ノンケ」の方のみが私の恋愛対象なのです。
そんな、「そもそも男性を好きにならない相手」にこちらの気持ちを明かすためには、どこかで必ず覚悟を決めなければなりません。そして勇気も出ず成功体験も持たない私には、LGBTカップルたちの幸せな姿は、やっぱり手の届かない幻なのです。
私もなりたい、彼氏ほしい、うらやましいな、とは思います。けれど私が望む恋愛のゴールは、「LGBTである私」と、「LGBTでは無いけれどLGBTを恋愛対象にしてくれた相手」とが結ばれるという、私だけに都合がいいパラドキシカルなものだからです。

正直自分でも、何が何だかときどき訳が分からなくなります。このような訳の分からなさを抱えずに、健全にスマートな恋愛を楽しめている(ように見える)「ふつう」の人たちを、私は恨めしく思ったこともありますが今では「それがこの世の習いなのだ」と感じています。
こんがらがっているのは私の事情の方で、世間はそうではないということを、小さい頃から痛いほどに肌で感じ、なかば諦めて「しょうがないもんね」と思うようになってもいます。